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2022.11.14

東畑開人×平野啓一郎───緑なす文学的断片をめぐる対話【後編】他者性の尊重と分人主義

この記事は、2021年11月14日に「ゲンロンカフェ」で配信されたトークイベント「『本心』はどこへ消えた?──緑なす文学的断片をめぐる対話」のダイジェスト記事です。

この番組では、臨床心理士の東畑開人さんと平野啓一郎が対談を行いました。司会はノンフィクションライターの石戸諭さんです。

「分人主義」というキーワードから読み解く、過去・現在・未来における心の在り方、そして心と文学の関係性とは?

前後編のダイジェストで、対談の一部をお届けします。(前編はこちらからご覧ください

者性には、近しい人でも辿り着けない部分が残されている


──『本心』では、主人公が一番知りたい母親の本心には、謎の部分が残っていますよね。どのような狙いがあったのでしょうか?

僕は、他者性はどうしたってわからないものだと考えています。例えば、悩みを誰かに打ち明けたとき、相手から「全然わからない」と言われると腹が立つ。けれども「100%理解した」と言われても腹が立つわけです。何でそこまでわかるんだと。

理解したい。でも最後の最後ではやっぱり理解できないものが残っているとするのが、他者性の尊重だと思うんですよね。理解しようと努めているけれども、本当のところは本人もわからないかもしれないし、こちらからもわからない。

一方で、死者に対する他者性の尊重はあっけなく突破されています。死んだ人間の本心については、みんな好き放題に言うんですよね。あの人は生きていたらこう思うはずだとか。
僕が1歳のときに父が他界したこともあり、僕は死者の声を聞くことにずっと反発があるんです。

もちろん父親の記憶は全くありません。だから子どもの頃は、父が本当はどんなことを考えていた人なのかと強い関心を持っていました。母や姉の言葉から、お父さんはこういう人だったんじゃないかと想像してみる。そうするとある程度は理解できた気がするけれども、最後の最後では、どんなに近い関係の人でもわからない部分が残されている。これが他者だという感覚がありますね。

それに死者といっても、いろんな人がいますよね。犯罪者から偉人までいろんな人がいる中で、抽象化して都合の良い声だけを引っ張り出し、それを今の社会に生かそうとすることに、少なからず反発を感じます。

それが今回の、亡くなった母親の本心にたどり着こうとするけれどもたどり着けない物語に関係してきているんですよね。

だから自由死を希望する母親が出てくるわけですね。なぜそんなことを言うんだという問いがあり、その答えを知りたい主人公がいる。そして文字をたどっていくと、母親の物語が見えてくる。母親には母親の苦境や傷があり、それらとどう接していくかという過程で、わからなかった部分の物語が紡がれて、主人公なりに母親を再建していく。

「心」と個人、そして分人主義の関係性

平野さんに最後に質問させてください。平野さんほど「心」という言葉を作品中に使う作家はいないのではないかと、僕は思っています。平野さんは「心」をさまざまなものが集約された言葉として、象徴的に使われている気がしているのですが、いかがでしょうか。

実際には、そんなに自覚的ではないのですが、確かにすごく使っていました。

『本心』発表後は、読者の方が意識的になり、前の作品のここにも本心という言葉がありますよ、と見つけてくれたりもしました。とはいえ僕は本質主義に対して基本的には否定的な考え方なんです。そのため本心という言葉も含めて、かなりアイロニカルというか複雑な含みを持たせて使っていることもあります。

心という言葉をどれぐらい使っているかは僕もわかっていませんが、何かよくわからないけれども人間が感じている思考や感情の場所としての「心」を一定程度イメージしていたのだと思います。

夏目漱石もそうですが、他者の他者性みたいなものを感じるときに現れてくるのが、心という言葉のような気がしています。「よくわからん」というときに、心という謎めいた次元が意識される。実際、自分の心を考えるのも、自分のことがわからなくなっているときだけなんですよね。

普通に生活しているときは心なんて考えず、自分で自分のことがわからなくなるときに心が現れる。僕は平野さんの小説で語られる分人主義に、古典的・近代的個人の再構築のような部分を感じるんです。今の人間観はむしろ非常に平面的になっていて、例えば選挙の行動分析では、人間に複数の気持ちがあるなんて関係ないですよね。マーケティングもそうです。人間を単純化して捉えている。

僕は、人格というのは、外部環境との間で発生する一種のパターンだと思っています。

ある人と出会い、最初はこの人はどういうことを言うと機嫌が悪くなるのか、それとも盛り上がるのかわからないので、非常に一般的な会話を始めますよね。そして徐々にパターン学習が進んでいくと、釣りが好きな人には釣りの話をして、この人と話すときの口調はこうだとわかる。年単位で積み重なっていくと、非常に相手のことをよく知っているし、相手に対する分人が、他の人との分人とは違ったものとして形成されていく。

そういう分人が自分の中に多数存在し、複数のパターンがある上で、個性とは何かというときに、複数の人間の中で混ざり合ったり、対話し合ったりしながら、あの人と会ったときはこうだけど、この人と会ったときはこうで、でもその中で確かに共通する何かがあるかもしれないぐらいのことで、事後的に何かしら発見されることはあると思います。

ですが、それが未来にそのまま持続していくかは全くわからないですよね。だから「三つ子の魂百まで」的な個性があり、それがさまざまな社会的ペルソナを使い分けながらも一貫して持続している、というモデルに対して僕は批判的なんです。

ただ、そうは言っても環境要因だけではなく、その人の生得的な資質なり性格的な偏りはあるので、条件というのもありますよね。

英語のindividual(個人)は、内的には一体性があるけど、他者との間はdivide(分割)され、independent(独立)なんです。それに対して分人主義とは内的には分化していくけど、他者との間には常に相互に影響し合っていて、言語を通じながら、相手の考えも入ってくれば自分の考えることが向こう側にも影響を与えるという、divideできない関係性があります。

だから内的に分化するという発想のおかげで、他者との間に分化できない関係性が開かれているというのが僕の分人主義です。

ただその上で、東畑さんがおっしゃっていることもよく分かります。あの人にはいろんな面があるけど、漠然とこういう人だというイメージがありますよね。それが僕は個性だと思うんですが、それが何なのかというのは興味がありますね。

(ライティング:池田きょうこ/ 編集:ぐみ / 協力:安藤瑞穂、大田由紀、コルンジックさやか、吉田歩美)