磯野真穂×平野啓一郎 ──人類学者と語る「分人主義」
2023.01.05
- #対談
「分人dividual」とは、「個人individual」に代わる新しい人間のモデルとして提唱された概念です。
「個人」は、分割することの出来ない一人の人間であり、その中心には、たった一つの「本当の自分」が存在し、さまざまな仮面(ペルソナ)を使い分けて、社会生活を営むものと考えられています。
これに対し、「分人」は、対人関係ごと、環境ごとに分化した、異なる人格のことです。中心に一つだけ「本当の自分」を認めるのではなく、それら複数の人格すべてを「本当の自分」だと捉えます。この考え方を「分人主義」と呼びます。
職場や学校、家庭でそれぞれの人間関係があり、ソーシャル・メディアのアカウントを持ち、背景の異なる様々な人に触れ、国内外を移動する私たちは、今日、幾つもの「分人」を生きています。
自分自身を、更には自分と他者との関係を、「分人主義」という観点から見つめ直すことで、自分を全肯定する難しさ、全否定してしまう苦しさから解放され、複雑化する先行き不透明な社会を生きるための具体的な足場を築くことが出来ます。
「分人主義」から、「私とは何か」を考えてみましょう。
前期分人主義小説
近代文学は、基本的に「個人individual」という単位に基づき、人間を描いてきました。平野啓一郎もまた、『日蝕』でのデビュー以降、そのように小説を書いていました。しかし、00年代以降、インターネットが急速に普及し、グローバル化と共に、未来の予測不可能性が高まってゆく社会の中で、前期分人主義の幕開けとなる『決壊』を書いていた平野は、「個人」という概念自体の限界を強く意識することとなりました。
それでは、どのように小説を書けば良いのか? どうやって生きていけばいいのか? その問いに対する答えを、以後、「分人」という概念の発見と発展を通じて考えてゆくこととなります。
2036年のアメリカを舞台に、人類初の有人火星探査に成功した英雄的クルーたちが、ミッション中に起きた「とある出来事」のために、熾烈なアメリカ大統領選に巻き込まれてゆく壮大な物語。顔認証技術と組み合わされた防犯カメラのネットワーク「散影」など、現実的/哲学的な未来予測の数々が、文学の内外から注目された。『決壊』後の「では、どうやって生きていくのか?」という問いに対し、平野が出した答えは、人格の複数性と他者との共同性とを結び合わせた「分人主義」だった。暴力が蔓延する世界で、愛と希望を模索した快作。Bunkamuraドゥマゴ文学賞受賞。
東日本大震災に見舞われた2011年は、平野が、早世した実父と同じ36歳となる年でもあった。一万五千人以上にも及んだ震災の死と、たった一人の父の死との狭間で書かれたのは、死者たちが蘇り、愛する者と再会する幻視的な世界だった。幸福の追求それ自体の不幸という『決壊』以来の主題が、「復生者」の一人である主人公を通して、理知的に、感情的に描かれている。人はなぜ、自殺するのか?という根源的な問いへの分人主義的なアプローチが多方面で議論された。最終章の家族の姿には、第3期を締め括るに相応しい深い感動がある。2022年6月、NHKでドラマ化!
後期分人主義小説
長篇小説『ドーン』を通じて生み出された「分人主義」は、以後、平野の基本的な人間観となります。
「分人」はそれぞれ外界との関係性によって規定されるため、その人の置かれる環境が大きな影響を及ぼすこととなります。グローバリズムの更なる発展と反-自己責任論 の立場から、10年代の平野の分人主義小説は、一人の人間の主体の分析から、より環境との関係に力点が移動してゆきます。
後期分人主義への転換のキーとなったのは、短編集『透明な迷宮』の表題作でした。私たちは、一見すると自由意思で生きているようでありながら、現代は不可視の壁によって進路を定められた「透明な迷宮」を彷徨っている状態です。
物語には、運命論的な色彩が濃くなり、プロットが明快になる一方、事象や関係性はより緻密に重層化しました。これが『透明な迷宮』から始まり、60万部超のベストセラーとなった『マチネの終わりに』、『ある男』、最新作『本心』に至る、後期分人主義小説です。
イラク戦争、難民問題、リーマンショック、東日本大震災、……と、00年代後半から10年代初頭にかけての世界史的な事件を背景に、「天才」ギタリスト蒔野聡史とジャーナリスト小峰洋子との愛と孤独を描き、新聞連載時から異例の反響を巻き起こした長篇。恋愛のみならず、親子愛、師弟愛、友愛、祖国愛など、対立と分断が進む社会の中での人間関係の有り様を、格調高く、優美な文体で描いた。分人主義的な人間観、世界観の美的な成果であり、また『葬送』以来の音楽小説としても歓迎された。60万部超のベストセラーとなり、初の映画化。渡辺淳一文学賞受賞。
弁護士の城戸は、愛児と夫とを立て続けに失ったかつての依頼者から、死んだ夫が、実はまったくの別人だったという奇妙な相談を受ける。
調査を始めた彼は、次第に明かされる謎の男の生への共感から、自らのアイデンティティをも激しく揺さぶられてゆく。
――前作の「過去は変えられる」という主題を引き継ぎつつ、現代人の生の困難と希望を、哲学的な含蓄に富んだ、繊細な筆致で描ききって大きな感動を呼んだ。過去に翻弄された大人たち、未来を生きようとする子供たちを見つめる作者の眼差しは優しい。累計23万部突破の傑作。読売文学賞受賞。
2040年代の日本。「リアルアバター」という代行業で糊口を凌ぐ青年・石川朔也は、半年前に事故で亡くした母親の「VF(ヴァーチャル・フィギュア〉」の作製を依頼する。本物そっくりに再現されたAIの〈母〉との新しい生活を通じ、彼は、幸福だったはずの日々に「自由死」を願い続けた母の「本心」を知ろうとするが。……
格差と分断、仮想空間と現実、出生と「死の自己決定権」、……そのあわいを生きる人々の失意と願い。現代の死生観を根本から問い直し、未来の社会をより「善く生きよう」とする主人公の思索と行動は、第4期の集大成と言える。繊細で透徹した一人称の文体が綴る、孤独な魂の遍歴の物語。
分人主義を考えるとき、「分人の構成比率」という考え方がカギになります。どのような割合で、どのような「分人」を所有しているのか。それの集合が、私たちの個性を事後的に決定します。
例えば、学生時代、学校でクラスメイトと過ごす時間はとても長く、大きいものに感じられます。そこでの「分人」が上手くいかないと「自分」そのものが嫌になることもあります。しかし、実際は、学校での自分は、幾つもある分人の一つに過ぎません。放課後、習い事で顔を合わせる友人や、家庭での「分人」が、学校で過ごす「分人」より心地良いのであれば、そのことを客観視し、最適な比率へと変化させることを考えるべきです。どうしても学校での分人が辛いのであれば、しばらくその分人を生きるのを休止し、心地良い分人を生きながら、状態が落ち着くのを待つ、というのも一つの方法です。
この体験コンテンツでは、あなたの人生を「分人主義」を通して振り返ることで、それぞれの時代の「分人」構成比率を整理し、どのような分人があったかを再認識することが出来ます。
過去の振り返り、また、現在を踏まえて、これからの未来、どんな「分人」の構成比率にしていきたいかを考えるきっかけにしてください。